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口に笑いが舌に喜びの歌が満ちる(詩編 126編)
Jun 13, 2026
隣人から奪い尽くす罪の重さ(列王記上 21章)
Jun 12, 2026
主は山だけの神ではない(列王記上 20章)
Jun 11, 2026
信仰者は孤独でも無力でもない(列王記上 19章)
Jun 10, 2026
生きて祈りを聴く主なる神(列王記上 18章)
Jun 9, 2026
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| Date | Episode | Description | Length | ||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 6/13/26 | ![]() 口に笑いが舌に喜びの歌が満ちる(詩編 126編) | そのときには、わたしたちの口に笑いが 舌に喜びの歌が満ちるであろう。… (詩編126編2節) バビロンに捕らえられているイスラエルの人びとにとって、捕囚から解き放たれてエルサレムに帰るとは、夢のようなことだったに違いありません。「そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。そのときには、国々も言うであろう、『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』と」。 その夢が実現しました。イスラエルの民は捕囚から解き放たれてエルサレムに帰り、神殿を再建して、主を喜び、賛美しています。この詩編は、捕囚の苦しみと、捕囚からの解放を夢見ていた頃を思い起こして、神殿で主をほめたたえています。主が大きな御業を成し遂げられたと言って、笑顔で主を賛美しているのです。 神から離れたイスラエルの民には、捕囚の苦しみを耐え忍ぶことが求められました。しかし、それは悔い改めて神に立ち帰るためであり、神と共に喜びに生きることの実現のためでした。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」(5節)。これが主なる神の約束です。 苦しみから解き放たれるとは夢のようなことかもしれません。けれども、私たちのために尊い独り子さえ惜しまれることがなかった神が、私たちの口に笑いを、舌に喜びの歌を与えてくださいます。主に信頼して主の大きな御業を待ち望みましょう。 【祈り】 主よ、あなたに信頼し、あなたの大きな御業を待ち望ませてください。 | — | ||||||
| 6/12/26 | ![]() 隣人から奪い尽くす罪の重さ(列王記上 21章) | 「彼に告げよ。『主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか。』」 (列王記上21章19節) 宮殿のそばのナボトの畑が欲しいと「むさぼり」の心を起こしたアハブは、ナボトに断られると、イゼベルの後押しもあって更に罪を加えました。ナボトを死に追いやるため、ならず者に「偽証」させます。それに基づきナボトを「殺し」土地を「盗み」取ってしまったのです。アハブは十戒の第五戒以下、隣人愛に関する六つの戒めのうち四つまでも背いてしまいました。長年にわたり偶像礼拝を重ねたアハブは、隣人に罪を重ね奪い尽くす者に堕落してしまいました。 それだけに主はアハブに厳しい裁きを宣告されました。彼の子孫を除き去る、彼の家の者は町で死ねば犬の、野で死ねば空の鳥のえじきなど、想像するのも恐ろしい罰です。アハブ自身これを聞いて打ちひしがれ、衣を裂き粗布をまとうなど悔い改めの姿勢を見せますが、主はアハブの悔い改めに一定の猶予を与えつつも、罰そのものは撤回されません。アハブの罪は一人では償い切れない大きなものだったからです。 私たちの罪も一人で償いきれるものではありません。キリストの十字架の贖いだけが償いを可能とします。そして聖霊の働きにより、隣人から奪う者から、隣人を愛する神の子へと私たちを造り変えてくださる、これがキリストによる救いです。 【祈り】 主よ、隣人より奪う罪人から、隣人を愛し分かち与える神の子へと、わたしを造り変えてください。 | — | ||||||
| 6/11/26 | ![]() 主は山だけの神ではない(列王記上 20章) | 「主はこう言われる。『アラム人は主が山の神であって平野の神ではないと言っているので、わたしはこの大軍をことごとくあなたの手に渡す。』」 (列王記上20章28節) アラム軍が軍馬と戦車を揃えて北イスラエルの首都サマリアを攻撃しましたが、敗れ去ります。アラム側は敗れた原因を、山地にあったサマリアでの戦いに山の神であるイスラエルの神が加勢したためと分析しました。そこで次の戦いの舞台をアフェクというキネレト湖(現在のガリラヤ湖)東岸の町に決めます。湖の岸辺は平野が多く、イスラエルは山の神の加勢を得られないと考えたのです。 「山の神」「平野の神」という具合に、ある領域だけの神という考えは世界各地にみられます。しかし、限られた領域の外だと助けることができない「神」など、仮に存在したとしても無意味ではないでしょうか。 この世界全体を創造した主は、異教が考える神々のようにちっぽけな存在ではなく、あらゆる領域を治められます。きょうの個所では平地のアフェクでもイスラエルを勝利させることでそれを示されました。 アブラハム・カイパーは、「人間が存在している領域で、キリストが『私のものだ!』と宣言しない領域は1インチ四方たりともない」と言いました。そのように、私たちも世界のあらゆる領域においてキリストを主なる神として従う生活を送り、そのことを証ししてまいりたいと願います。 【祈り】 キリストこそ世界の主であることを、わたしの生きる姿勢によって、きょうも現すことができますように。 | — | ||||||
| 6/10/26 | ![]() 信仰者は孤独でも無力でもない(列王記上 19章) | 「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」 (列王記上19章18節) エリヤがバアルの預言者を打ち負かしたことが王妃イゼベルの怒りを買い、エリヤは荒れ野に逃げ、自らの死を願います(4節)。主はエリヤをどうやって立ち直らせたのでしょうか。エリヤの心は、主の預言者は自分だけ、そして殺されようとしている、という孤独感と無力感に満ちていました(10、14節)。そこで御使いが食べ物を与え、四十日の旅の末にホレブ山へと導きます(8節)。エリヤの内に生きのびる力がまだあると気づかせます。次に主は強い風、地震、火の中におられず、静かにささやく声でエリヤに語り掛けられました(11、12節)。人間的に力強いと感じる現象がなくても主は近くにおられることに思い至らせたのです。 その上で主はエリヤに使命をお与えになりました。ハザエルをアラムの王に、イエフをイスラエルの王に、そしてエリシャをエリヤに代わる預言者に任命することです。その最後に主は、イスラエルにバアルにひざまずかない七千人を残す、と宣言されました。エリヤは自分が決して孤独で無力ではないと知り、立ち直ることができました。 主はきょうも「恐れるな。語り続けよ。…この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使18章9、10節)と言って、力づけてくださいます。 【祈り】 主がそばにいて力づけてくださると信じ、きょうも恐れず主の栄光を現すことができますように。 | — | ||||||
| 6/9/26 | ![]() 生きて祈りを聴く主なる神(列王記上 18章) | これを見たすべての民はひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。 (列王記上18章39節) 主の預言者エリヤは、バアルの預言者とどちらの神が真の神か対決することになりました。雄牛と薪を載せた祭壇に火をつけた神が真の神と判定されます。バアルの預言者たちは朝から昼まで声を上げ祈りますが、何も起こりません。バアルは旅にでも出ているか、眠っているのか、とエリヤに挑発されて、バアルの預言者たちは祭壇の周りを跳び回り、果ては体を傷つけまでしましたが、祭壇に火はつきませんでした。 一方、エリヤは、祭壇の周りに溝を掘り、雄牛と薪の上から水を大量にかけさせました。わざわざ火がつきにくいようにしたのです。そして派手なパフォーマンスをすることもせず、主に祈り願いました。すると主が火を降し、いけにえと薪、さらには大量にかけた水までも一掃したのです。これを見た人びとは「主こそ神です。主こそ神です」と主の前にひれ伏しました。その後、主は激しい雨を降らせ、干ばつをも終わらせました。 主なる神以外の偶像の神々は、実際には生きていません。ですから祈り方を派手にしても応答は得られないのです。他方、主は生きて私たちと共におられますから、祈る前から私たちの本当の必要を知り、言葉数が多くなくても最もよい形で祈りに応えてくださいます。 【祈り】 聖書で示された生ける主をこそ、私たちの唯一祈るべき神として依り頼ませてください。 | — | ||||||
| 6/8/26 | ![]() 命を与え命を支える主なる神(列王記上 17章) | 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。 (列王記上17章22節) 預言者エリヤがイスラエルに数年にわたる干ばつを預言し、そのとおり干ばつが始まります。エリヤも飲食に事欠く危機に見舞われますが、主がカラスに食料を運ばせ、イスラエルの外のシドンのやもめの家に導いて、エリヤの命を支えられました。カラスが人に食ベ物を運ぶことも、イスラエルに属さない異邦人を主が用いることも、当時は常識的にありえないことでしたが、主は人の命を支えるためにはあらゆる手段を用いることがおできになるのです。 エリヤを迎えたやもめの家ではやもめの息子の分も含め食べ物に事欠きませんでしたが、やがて息子が重い病気にかかり死んでしまいます。死んだ命は返ってこない、とやもめは嘆き悲しみます。エリヤは主に向かい「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と祈りました(21節)。主は祈りに応え、子どもの命を元に返してくださいました。 主なる神は人を創造して命を与え、命を支えてくださるお方です。そして人が永遠の命に生きることを望み、死ぬことを喜ばれません。だからこそ、人の命を奪う罪を打ち砕くため、愛する御子イエスを十字架につけるまでして、人の命が一度死んでも新しい命に生かされる復活を実現してくださったのです。 【祈り】 主よ、あなただけを、永遠の命を与え、支えてくださるお方として生きることができますように。 | — | ||||||
| 6/7/26 | ![]() 正しい人ではなく罪人を招くため(マタイによる福音書 9章9-13節) | 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」 (マタイによる福音書9章12節~13節) 主イエスは、収税所に座っているマタイを弟子とされました。マタイは自分の家に主イエスを招き、その食事の席に徴税人や罪人も大勢同席しました。徴税人とは、当時のローマ帝国に協力して、税を徴収する役人でした。時には法外な額を要求して私腹を肥やす者もいました。 ファリサイ派の人びとから「なぜ、…徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子たちは問われました。 主イエスは、その問いを引き受けられ、主が喜ぶのは、主を知り、愛することであり、神への見せかけの供え物、いけにえではないと言われます。ファリサイ派の人びとはいけにえや異邦人との交際禁止という形ばかりを追いかけ、神への愛を忘れ、徴税人や罪人たちが神との愛の関係を取り戻すことを喜べません。 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。丈夫な人、正しい人とは、自分は立派に神の律法を守っていると自己評価する人。病人、罪人とは、自分の力ではどうにもできない、自分の罪を赦してもらいたい、心底、自分の生活を変えてほしいと願う人。その人たちが主イエスの食卓に共に招かれ、憐れみ深い言葉をかけられ、罪赦され、愛の交わりに入れられ、主への愛を表す、神の国の喜びの祝宴にあずかります。 【祈り】 自分を正しいとするのでなく、憐れみに罪赦されて、食卓に招かれ、主への愛を表す弟子としてください。 | — | ||||||
| 6/6/26 | ![]() 主に依り頼む人はシオンの山(詩編 125編) | 主に依り頼む人は、シオンの山。 揺らぐことなく、とこしえに座る。 山々はエルサレムを囲み 主は御自分の民を囲んでいてくださる (詩編125章1節~2節) 「シオンの山」と呼ばれるエルサレムは、丘と谷が複雑に入り組む地形で、天然の要害と呼ばれました。カナンに定住したイスラエルの民は久しくエルサレムを攻略できず、ようやくダビデが攻め落としたので、エルサレムはダビデの町と呼ばれます。その難攻不落のシオンの山を神の守りになぞらえて、「主に依り頼む人は、シオンの山。揺らぐことなく、とこしえに座る」と言います。天然の要害としてシオンが守られたように、主ご自身が壁となり砦となってご自分の民を守っておられると言い、主なる神への信頼と賛美を言い表します。 私たちが強いからではありません。主が共にいて守っていてくださる。それゆえ、揺らぐことがありません。罪と悪から守られ、道をそれることなく歩むことができます。ですから、詩人は主なる神に祈り求めます。「主に逆らう者の笏が置かれることのないように。主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように」(3節)。 主イエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とおっしゃいました(ヨハ2章19節)。もはや地上のエルサレムではありません。キリストの体なる教会において、主の守りは確かです。キリストの御声に聞くことによって、大牧者に養われる羊の群れは、主なる神の確かな守りの中に置かれて歩みます。 【祈り】 主よ、あなたに信頼し、あなたに守られる幸いの中を歩ませてください。 | — | ||||||
| 6/5/26 | ![]() 渇きを癒す永遠の命に至る水(ヨハネによる福音書 4章) | 「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」 (ヨハネによる福音書4章14節) 主イエスは、サマリアの女との対話の中で、この人が抱えている問題を言い当て、「わたしを信じなさい」と言われました。この女性は、これまで行ってきたことによっては満たされることのなかった飢え渇き、またそこにある罪を知っておられるお方に出会いました。さらに主から、霊と真理をもって父を礼拝する時が来ていることを告げられました。 私たちは、聖霊に導かれ、キリストを証しする聖書に聞き、父なる神を礼拝します。主イエスは、私たちが抱えている問題と飢え渇き、罪を知っておられます。そしてそのすべてを背負い、十字架の死と復活によって、私たちに罪の赦しと永遠の命をもたらしてくださいました。この恵みを信じることが、主イエスが与えてくださる水を飲むことです。その水は、私たちの渇きを癒す永遠の命に至る水です。 サマリアの女は自分の生活を知る周囲の人びとの目を避けて、暑い昼に水を汲みに来ていたのでしょう。しかし、主イエスと出会った彼女は、「わたしが行ったことをすべて、言い当てた」と言って、人びとに主を証しするようになりました。聖霊に導かれて主の御言葉に聞き、父を礼拝する生活は、渇くことのない永遠の命に至る水で満たされた生活です。 【祈り】 永遠の命に至る水を与えてくださる主イエスの恵み、父を礼拝する恵みを感謝します。 | — | ||||||
| 6/4/26 | ![]() 独り子をお与えになった神の愛(ヨハネによる福音書 3章) | 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」 (ヨハネによる福音書3章16節) 創世記に、アブラハムが神に命じられてイサクをささげようとしたことが記されています。そのとき神はアブラハムに、「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」と言われました。神のご命令によって、アブラハムは筆舌に尽くしがたいほどの試練を経験しました。どれほど悩み苦しんだことしょうか。 しかし、神が独り子をお与えになったことは、アブラハムがイサクをささげることと同じではありません。なぜなら、神の独り子の死は、私たちの罪に対する神の刑罰を身代わりに引き受け、神に見捨てられる死だからです。この死の苦しみは私たちの想像をはるかに超えています。このような死に、神は独り子をお渡しになったのです。神に敵対する「世」に属していた私たちは、そのままでは神に見捨てられ、滅びるほかない者でした。しかし神は、独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るために、愛する独り子をお与えくださったのです。 神は私たちの救いのために、そこまでのことをしてくださいました。それは、私たちの想像をはるかに超えた愛のゆえでした。それほどまでに、神はあなたを愛しておられます。驚くべき神の愛がここにあります。 【祈り】 父なる御神、独り子をお与えになるほどの愛を心から感謝して、きょう一日を過ごします。 | — | ||||||
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| 6/3/26 | ![]() 主の恵みを見る―人の力尽きるとき(ヨハネによる福音書 2章) | このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。 (ヨハネによる福音書2章9節~10節) 主イエスはガリラヤのカナの婚礼で、水をぶどう酒に変える奇跡を行って、その栄光を現されました。婚礼のぶどう酒は、祝宴の喜びが途中で途切れてしまわないように準備されたものです。しかし、何の手違いか、思いがけずそれが途切れてしまいました。婚礼に限らず、人は人生が喜ばしいものになるために労苦します。しかし、思いがけず自分が築いたものが崩れ、どうしてよいか分からずに行き詰まることがあります。喜ばしい思いが尽き、つらい思いばかりがわいてくるときもあります。「ぶどう酒がなくなりました」と言うほかないときがあるのです(3節)。 しかし主イエスは、水を良いぶどう酒に変えられたように、私たちの人生を、尽きることのない喜びの人生へと変えてくださいます。復活の主イエスに結ばれた人生は、罪を赦され、死から復活の命へと救われた人生です。復活の主が共にいてくださり、道を備えて歩かせてくださいます。人が造った喜びが尽きるときにも、主イエスが用意してくださった救いの喜びが尽きることはありません。 水をくんだ召使いたちは、ぶどう酒がどこから来たのか知っていました。私たちも知っています。救いは主イエス・キリストから来ることを。 【祈り】 疲れを覚えるときこそ、尽きることのないあなたの恵みに生かされていることを思い起こさせてください。 | — | ||||||
| 6/2/26 | ![]() 来て、見なさいと招かれる主イエス(ヨハネによる福音書 1章) | するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。 (ヨハネによる福音書1章46節) ナタナエルはフィリポから主イエスのことを「ナザレの人で、ヨセフの子イエス」と聞いたとき、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と答えました。これは当時のユダヤ人社会の、一般的な見方でした。ですから、会いもしないうちに、主イエスについて判断してしまうのです。 私たちの社会でも、世間一般の見方があります。そのために聖書をよく読む前に主イエスのことを、「救い主ならこうあるはずだ」と判断してしまうことがあります。しかし、それでは主に出会うことはできません。 主イエスはナタナエルが御自分のところに来て「見る」前に、すでに彼のことを「見て」知っておられました。主はナタナエルの人生と、そこにある飢え渇きをご存じなのです。主の言葉を聞いて驚くナタナエルに、主はもっと偉大なことを見ることになると告げられました。それは、天への道が開かれるということです。 主イエスは、私たちが主を知る前から私たちを知っておられ、そのまなざしの中で私たちを御許に招いてくださったのです。私たちは、「来て、見なさい」という招きに応えて主を礼拝し、御言葉に聞き続けるとき、「もっと偉大なこと」、すなわち天が開かれるという、永遠の救いを見せていただけるのです。 【祈り】 主よ、あなたはわたしを弟子として招き、救いの完成を見させてくださいます。感謝します。 | — | ||||||
| 6/1/26 | ![]() 主イエス・キリストと共に生きる(列王記上 16章) | 彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、…エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。 (列王記上16章31節) 16章は、北王国の五人の王についての証言です。いずれの王も、主の目に悪とされること、つまり、「ヤロブアムの道」を踏襲して偶像崇拝を行いました。その中でもオムリ王朝初代のオムリは、彼以前の誰よりも偶像崇拝にふけり、主の怒りを買い(25、26節)、息子のアハブは彼以上でした(30節)。 アハブは、フェニキアのシドンの王の娘イゼベルを妻に迎えて、何と、バアルを進んで礼拝したのです。バアル宗教のしきたりは、イゼベルをとおして王国に持ち込まれたのでした。イゼベルの父親の名前はエトバアルで、「バアル神と共に生きる」という意味です。 主なる神は「妬む神」です(出20章5節、聖書協会共同訳)。御自分のものとして愛し選んだ民が偶像に走ることを最も忌み嫌われ、怒りを注がれます。アハブが進んで礼拝したバアルは「主」という意味で、カナンでは豊作をもたらす神として崇められていました。また、アハブは、アシェラという女神をも拝みました(33節)。 キリスト者にとって「主」はただおひとり、イエス・キリストのみです。そして、この御方と共に生きることこそが、神が最も喜ばれることで、インマヌエル(神は我々と共におられる)の祝福です。 【祈り】 主よ、いつもあなたと共に生きることができますように。 | — | ||||||
| 5/31/26 | ![]() 主イエスの権能・命令・約束(マタイによる福音書 28章16-20節) | 「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、…」 (マタイによる福音書28章19節) マタイによる福音書の最後の部分であるきょうの箇所は、私たちの視野を広げ、心をワクワクさせます。主イエスは、ユダヤ人から、異邦人を含めた全世界への福音の宣教を命じられているからです。 この主イエスの御言葉は、「大宣教命令」と呼ばれるとても大切な言葉です。主イエスは、先ず「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じられます。これはユダヤ人という民族と、イスラエルという枠を超え、全民族と全世界を含めます。 主イエスはこのご命令の前にご自身の権能を思い起こさせられます(18節)。十二弟子たちはもちろんのこと、今日の私たちにとって最も必要なのは「キリストの権能」を知ることです。そして、この権能が私たちに託されています。パウロが「すべては、あなたがたのものです」と語る理由もここにあります(1コリ3章21節)。 また、キリストの大宣教命令は「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というキリストの約束につながっています(20節)。何と素晴らしい祝福でしょうか。キリストの弟子としての最高の祝福は主イエスのご命令に従うことです。そのため、三位一体の御名のもとでの洗礼とキリストの御言葉に聞き従うことが求められます。 【祈り】 三位一体の神の祝福が、この日に、全世界に、満ちあふれますように。 | — | ||||||
| 5/30/26 | ![]() わたしは正しい言葉を求めて祈る(箴言 26章) | 分別を失った者が、火矢を、死の矢を射る。友人を欺く者はそれに等しい。しかも、「ふざけただけではないか」と言う。 (箴言26章18節~19節) 26章は、大きく三つに分けられます。最初は愚か者についての考察です。そこでは特に、愚か者が自らを賢者だと誤解することの災いが語られています(1、5、8、12節)。 続いて、怠け者の様子が短く描写されますが、ここでもまた「怠け者は自分を賢者だと思い込む」との言葉があり(16節)、愚か者の個所と同じ心配がなされています。 そして、17節以下では、具体的な愚かな行動として、自分に関係のない争いに口出しする様子が描かれています。それは大変危険なことなのですが、愚か者にはそのような「分別」がないので、言葉の矢を好き放題に放ちます(18節)。 そしてそれをとがめられると、「ふざけただけではないか」と開き直ります。けれども、箴言ははっきりと「陰口を言う者が消えればいさかいは鎮まる」と本質をついています(20節)。 これは、私たちの社会で今起きていることをそのまま描いているような思いがします。SNSによる誹謗中傷が横行しているにもかかわらず、何が正しいのかさえ決めあぐねているからです。しかし、そこで大切なのは、わたしも愚か者ではないかと問うことではないでしょうか。 【祈り】 神よ、あなたは地上のことすべてをご存じです。私たちが語る言葉を正しいものとしてください。 | — | ||||||
| 5/29/26 | ![]() 主と心を一つにして生きる(列王記上 15章) | イスラエルの王ヤロブアムの治世第二十年に、ユダの王としてアサが王位につき、エルサレムで四十一年間、王位にあった。 (列王記上15章9節~10節) 南王国の二代目はアビヤムで、三代目はアサでした。彼らはその歩む方向が正反対でした。アビヤムは、父レハブアムのように、主なる神と心が一つではなく、偶像崇拝の罪を犯しました。その一方で、アサは、主なる神と心を一つにして、王国内にはびこる偶像の数々を退けました。彼は、王国内の宗教改革を行い、その徹底ぶりは偶像崇拝者の母親マアカを太后の位から退けるぐらいでした。 しかし、どうやら、アサが主なる神と心を一つにしたのは偶像への対応で、外国や自分の病気への対応では主を頼みとしなくなったようです(代下16章参照)。北王国に対抗するため、主ではなく、アラムの王ベン・ハダドを頼みとし、晩年は、重い足の病気になっても、主を求めることなく、医者だけに頼りました。このように主とアサとの心の歯車が噛み合わなくなったのは、北王国がユダに攻め上って来たとき、アラム王国との同盟によって侵略の危機を免れるという順境を体験してからのように思われます。 私たちも、人生がうまくいっている時、自分の力で成し遂げたと錯覚して、主を忘れがちです。人生逆境の時はもちろんですが、順境の時こそ、主を忘れずに、主に頼み、感謝しましょう。 【祈り】 主よ、どのような時も、あなたを忘れずに、あなたと心を一つにすることができますように。 | — | ||||||
| 5/28/26 | ![]() ヤロブアムとレハブアム(列王記上 14章) | レハブアムとヤロブアムの間には戦いが絶えなかった。 (列王記上14章30節) 南王国の王で、ソロモンの息子がレハブアム、北王国の初代王がヤロブアム。似たような名前で混乱しそうなのはわたしだけでしょうか。南北いずれも、同じ唯一の神に選ばれた民で、両者の名前の意味はよく似ています。レハブアムは「民は増え広がった」、ヤロブアムは「民は増す」。いずれの名前にも、共通の先祖アブラハムへの約束(創13章16節)が反映されているかのようです。 にもかかわらず、「レハブアムとヤロブアムの間には戦いが絶えなかった」のです。いわゆる、骨肉の争いです。両者が戦い続ける限り、民は増すどころか、減る一方でした。 ヤロブアムを王にいただく人びとはもちろんですが、レハブアムの南王国の人びとも、先祖に勝る偶像崇拝の罪を犯し、主の怒りを買いました。何より、主の住まいの神殿を男娼の住まいとしました。南北の争いの罪の源は、やはり、この偶像崇拝の罪で(12章30節参照)、貪欲です。 分裂した人びとが貪欲から解き放たれ、一つとなるには、偶像の神々でなく、十字架の死において両者の敵意という隔ての壁を取り壊してくださったまことの神、主イエス(エフェ2章14節)の救いが必要です。聖霊によって、主イエス・キリストに接ぎ木していただき、この御方を共に仰ぎ見る以外に方法はありません。 【祈り】 主よ、貪欲を捨てて、あなたのみを仰ぎ見ることができますように。 | — | ||||||
| 5/27/26 | ![]() 神の言葉に忠実に生きる(列王記上 13章) | この出来事の後も、ヤロブアムは悪の道を離れて立ち帰ることがなく、繰り返し民の中から一部の者を聖なる高台の祭司に任じた。 (列王記上13章33節) 北王国は、偶像崇拝の罪を悔い改めることなく、「ヤロブアムの道」を歩み続け、紀元前722年頃、主なる神の裁きにより、「地の面から滅ぼし去られること」になりました。「神の人」と「老預言者」との出来事は衝撃的です。しかし、この事件をとおしても、神は、ヤロブアムを悔い改めへと招かれたのです(33、34節)。 「老預言者」は、神の命令で留まっていた「神の人」を欺いて食事へと招きました。王国分裂後、神の御告げを聴く機会がなくなり、霊的な飢え渇きをおぼえていたのでしょうか。南王国からの預言者である「神の人」をぜひとも招きたかったのでしょう。しかし、神の言葉を告げる預言者が人を欺くことは絶対に許されません。それにも関わらず、気の毒にも、神に裁かれたのは「神の人」でした。神の命令に逆らって、ベテルで飲み食いしたからです(21、22節)。 悪の道を離れて主に立ち帰れ!と告げる預言者に対しては、人一倍、神の言葉への忠実さが求められます。新約聖書に「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています」とあります(ヤコ3章1節)。だからこそ、今日の預言者である教師のためにお祈りください。 【祈り】 主よ、教師が御言葉に忠実に歩み、語れるように助けてください。 | — | ||||||
| 5/26/26 | ![]() 貪欲の反映は偶像崇拝で罪の源(列王記上 12章) | この事は罪の源となった。民はその一体の子牛を礼拝するためダンまで行った。 (列王記上12章30節) ソロモンの息子レハブアムのとき、主なる神の裁きにより、王国は二つに分裂してしまいました。北王国の初代王となったのがヤロブアムです。 ヤロブアムは十部族の支持を得ましたが、神の民の信仰と生活の拠り所エルサレム神殿は南王国の王レハブアムの支配下にありました。ですから、彼は気が気でありません。主の神殿がレハブアムの支配下にある限り、人びとはエルサレムを往復する内に心が彼に向かってしまい、自分を殺すことになりはしないかと。 そこで採った方法が、エジプトから導き上った神として金の子牛を二体造り、一体を北の端ダンに、もう一体を南の端ベテルに安置して、人びとがエルサレム神殿に行かないようにすることでした。禍なるかな!ヤロブアム。彼の貪欲の反映である偶像崇拝がイスラエルのあらゆる罪の源となりました。そして、この偶像崇拝を行い続けることが「ヤロブアムの道」と呼ばれるようになりました(15章34節)。 私たちも、「ヤロブアムの道」に踏み込まないように気をつけねばなりません。新約聖書の御言葉です。「貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロ3章5節)。貪欲は偶像崇拝の罪です。 【祈り】 主よ、きょうも、あなたがお与えくださるもので満足し、感謝できるように、聖霊によって助けてください。 | — | ||||||
| 5/25/26 | ![]() 契約に忠実な主なる神(列王記上 11章) | 「王国全部を裂いて取り上げることはしない。わが僕ダビデのゆえに、わたしが選んだ都エルサレムのゆえに、あなたの息子に一つの部族を与える。」 (列王記上11章13節) ソロモンはエディドヤ(主に愛された者)とも命名されました(サム下12章25節)。彼は、主なる神の導きのもと、王国の黄金時代を築きました。ところが、ソロモンといえども罪人のひとり、四十年の王の歩みの中で多くの罪を犯しました。 ソロモンという名前はシャローム(平和)に由来します。その名前のとおり周辺諸国との平和を大切にしましたが、方法がよくありませんでした。異教の諸外国と姻戚関係を結んだのです。政治的な判断としては賢明に思えるかもしれませんが、それは神が禁じられたことでした(申7章3節)。晩年のソロモンは、大勢の妻たちが信奉していた異教の神々に心が向かい、偶像崇拝の罪を犯しました。彼は悔い改めることなく、神の怒りを買いました。しかし、本来ならば、速やかな滅びですが(申7章4節)、憐れみ豊かな神は、主の僕ダビデへの契約(サム下7章12~16節)のゆえに、王国の一部をソロモンの手に残され、彼の存命中は裁きを実行なさいませんでした。 神は、主の僕ダビデとの契約を忠実に守られ、時満ちて、主の真の僕イエスをこの世に遣わされました。主の真の僕イエスのゆえに、あらゆる平和の礎・神との平和が実現しました。神は主イエスのゆえに罪深い私たちを愛してくださいます。 【祈り】 主よ、きょうも、あなたにのみ信頼し、服従することができますように。 | — | ||||||
| 5/24/26 | ![]() 五旬祭の日の聖霊の降臨(使徒言行録 2章1-21節) | すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。 (使徒言行録2章4節) 五旬祭の日に起こった聖霊の降臨は、時代を超えて信徒たちにキリスト教信仰の本質に気づかせてくれます。この日、約束どおり聖霊を遣わされたのはキリストでした。イスラエルの人びとに律法が与えられたこの日、聖霊は「激しい風」(2節)と「炎のような舌」(3節)で現れました。ヘブライ語で「風」と「霊」は同じ言葉です。ですから、この日、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っている家中に響いた」のです。 同時に、この日、炎のような舌が分かれ分かれに現れました。旧約聖書はしばしば「神のご臨在」を炎、または火で表現しています(出3章)。炎は汚れたものを清くする「神の御力」を象徴します。聖霊は、舌という言葉をもって、罪を燃やす炎としてキリスト者を聖化させるのです。現在も聖霊の御業は少しも衰えていません。聖霊は二千年前と変わることなく、教会に働き続けておられます。 それから、弟子たちの話をそれぞれ自分の故郷の言葉で聞く奇跡と共に、聖霊に満たされたペトロの説教が続きます。ペトロの説教の中核は聖霊の降臨が旧約聖書の預言の成就であるということです。私たちが聖霊に満たされる理由がここに示されています。 【祈り】 きょう、ペンテコステ礼拝をとおして聖霊に満たされる私たちとされますように。 | — | ||||||
| 5/23/26 | ![]() 思いあがらず神の義を求める(箴言 25章) | 王の前でうぬぼれるな。 身分の高い人々の場に立とうとするな。 高貴な人の前で下座に落とされるよりも 上座に着くようにと言われる方がよい。 (箴言25章6節~7節) 25章から「ソロモンの箴言(補遺)」と新しい小見出しに変わります。 そして1節冒頭では、まずは神と王が共に極めがたいものとして並べられ、両者の結びつきがはっきりと示されています。さらに4節では、銀の精錬がたとえとして語られています。それは続く5節で「王の前から逆らう者を除け」との言葉を導くためです。その場合に「逆らう者」とは、単に王に対して言い逆らうというよりも、むしろ、神に敵意を持つ者のことです。「精錬」とは神に対する態度において正しい者が必要だという意味です。それが王あるいは王国を正しくするというのです。 これは、私たちにも当てはまります。この章全体の言葉が神の王国に暮らす者たちに対して生き方を示すからです。そこで特に戒められているのは他者の前での「うぬぼれ」(6節)であり、「欺く者を頼りとすること」(19節)です。 それに続いて主イエスが語られた「あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカ6章)と、パウロが手紙で引用した「炭火を彼の頭に」(ロマ12章)との言葉が並んでみられます(21、22節)。このように、私たちはいつでも神の御前にあることを覚えて、親切でへりくだった者として歩むのです。 【祈り】 神よ、あなたはご自身の王国の中に私たちを加えてくださいました。この日も御旨に生かしてください。 | — | ||||||
| 5/22/26 | ![]() 戦車ではなく主を誇る信仰を(列王記上 10章) | ソロモンの歳入は金六百六十六キカル、そのほかに隊商の納める税金、貿易商、アラビアのすべての王、地方総督からの収入があった。 (列王記上10章14節~15節) ソロモンの国際貿易のエピソードとして、シェバの女王の来訪が書き留められています。女王は、ソロモンに質問を浴びせて、その知恵に驚き、宮殿や富に魅了されました。互いに多くの贈り物を贈り合っていて(10、13節)、貿易の面でも良好な関係を築くことができたようです。 14節以下、ソロモンの富が数え上げられています。「歳入は金六百六十六キカル」とあり、二十トンを越える莫大なものです。「レバノンの森の家」とはソロモンの王宮を指し、王座は象牙を金で覆ったもの、杯はすべて金、器はすべて純金だったと言われます。ソロモンの治世の初期には富は食糧の豊かさで数えられるものでしたから(5章1~5節)、その変化の大きさに驚かされます。 ソロモンは多くの富を得るだけでなく、戦車と騎兵も集めました(26~29節)。ソロモンの時代、実際にこれらが用いられることはなかったと言われますから、ソロモンの名誉心の表れだったと言えるでしょう。 「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える」(詩20編8節)。 たとえ繁栄していたとしても、主の御名に依り頼む信仰を失うならば、むなしく終わります。私たちは、主の御名を唱える信仰に固く立つ者でありたいものです。 【祈り】 主よ、ただあなたの御名に依り頼む者であらせてください。 | — | ||||||
| 5/21/26 | ![]() ソロモンに忍び寄る誘惑と主の警告(列王記上 9章) | 主はかつてギブオンで現れたように、再びソロモンに現れ、こう仰せになった。「…わたしは…この神殿を聖別し、そこにわたしの名をとこしえに置く。」 (列王記上9章2節~3節) かつて主なる神は、夜の夢の中でソロモンに現れました。そのときソロモンは、民を正しく裁くことができるよう、「聞き分ける心をお与えください」と願い求めました。主は、その願いを喜び、賢明な心を与えると答え、豊かな祝福を約束してくださいました(3章4~15節)。 豊かな知恵をもって民を治め、念願であった神殿建築を果たしたソロモンに、再び主が現れます。主は、「この神殿を聖別し、そこにわたしの名をとこしえに置く」と約束し、「もしあなたが、…無垢な心で正しくわたしの前を歩み、わたしがあなたに命じたことをことごとく行い、掟と法を守るなら、…わたしはイスラエルを支配するあなたの王座をとこしえに存続させる」と警告を加えます(4、5節)。主は、ソロモンに忍び寄る誘惑をご存じなのです。 10節以降、ソロモンが多くの町や砦を築いたこと、国際貿易に励んだことが書き留められています。驚くことに、ソロモンは、材木や金を提供したティルスの王ヒラムに、神から与えられた嗣業の土地であるガリラヤの町々を与えようとします(11節)。ソロモンの心が神から離れていたことを示しているでしょう。 地上の富に目を奪われることなく、神の御心を追い求め続ける、主に忠実な歩みを祈り求めましょう。 【祈り】 主よ、あなたが喜ばれることを追い求める者であらせてください。 | — | ||||||
| 5/20/26 | ![]() 神御自身の恵みと真実さ(列王記上 8章) | 神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。 (列王記上8章27節) 8章は、神殿建築の頂点であり、契約の箱が至聖所に安置される荘厳な場面です。祭司たちが聖所から出ると、雲が神殿に満ち、「主の栄光が主の神殿に満ちた」のです(11節)。 この栄光の瞬間に、ソロモンは驚くべき告白をします。「天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(27節)。七年の歳月と莫大な資材を費やした神殿の完成式で、王自らがその限界を告白したのです。 これは深い信仰の言葉です。神は人間の造った箱に納まるお方ではありません。にもかかわらず、神はこの「ふさわしくない」場所に臨在してくださいました。それは神殿の立派さゆえではなく、ただ神ご自身の恵みと契約の真実さのゆえです。この契約とは、箱に納められたシナイでの契約(9節)であり、ダビデに与えられた約束(サム下7章)でもあります。ソロモンの長い祈りは、罪の赦し、立ち帰り、そして異国人さえも含むすべての人への憐れみを願い求めています。神殿は、完璧な人びとの集まる場所ではなく、罪を認め、赦しを乞う者たちが神と出会う場所なのです。 私たちの礼拝もまた、自らの「ふさわしくなさ」を知りつつ、なお近づいてくださる神の恵みに応答する場です。 【祈り】 主よ、ふさわしくない私たちのもとに来てくださり、感謝します。 | — | ||||||
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