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【礼拝で政治の話はやめてください】2021年2月7日(日)徳島北教会説き明かし
Feb 9, 2021
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ぼやき&MAX東西キリスト教新春巨頭会談Vol.1【あけましておめでとうございます】
Jan 26, 2021
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【もともとあった分かち合い】2021年1月24日(日)主日礼拝
Jan 24, 2021
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【のろさに付き合う神さま】2021年1月10日(日)新年礼拝@徳島北教会
Jan 12, 2021
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「ひとつ屋根のもとの安らぎ」(2020年12月20日(日)クリスマス)
Dec 30, 2020
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| 2/9/21 | ![]() 【礼拝で政治の話はやめてください】2021年2月7日(日)徳島北教会説き明かし | 聖書:マルコによる福音書15章1−15節(ピラトによるイエスへの尋問と死刑判決) 「礼拝説教では政治の話はしないでください」という声はよく聞かれます。確かに牧師が説教の中で、特定の政党への支持を呼びかけたり、特定の政治思想を説いたりということはよくないと思います。 ただ、政治の色が一切ない聖書の話をしろと言われると、ちょっとそれは無理な注文ではないかなと思います。 なぜなら、イエス様は実に政治的な暴虐の中で殺されていった方だからです。イエス様の生涯と死について語るとき、当時の政治について話さないわけにはいきませんし、またそれは現在の私たちが生きている政治的状況と無関係に語っても意味がありません。 今日は、そのような意味で興味深いシーンを引用しながら、そのことを考えてみましょう。 | — | ||||||
| 1/26/21 | ![]() ぼやき&MAX東西キリスト教新春巨頭会談Vol.1【あけましておめでとうございます】 | ぼやき牧師こと富田正樹と、Francis_Maxこと高松尚志の、ツイキャスによる対談、第1回目です。 キリスト教にまつわる気楽な、かつ割と無責任なトークですが、いい加減なプロテスタントの牧師と霊性にあふれた元カトリック修道士が、時にふざけて、時に大真面目にキリスト教を語ります。 これ1回が最初で最後になるかも知れないし、ひょっとしたら大喧嘩、相互破門に発展するかも知れません。 或いはこの先も続く番組になるかも知れませんが、温かい心で楽しみ、見守って下さったら、私たちとしては心から嬉しいです。 末筆になりましたが、誰よりも神様、イエス様、本当にありがとうございます。 ▼Francis_Maximiliano の関連リンク アメブロ「Francis Maximiliano」 https://profile.ameba.jp/ameba/marco-s/ Twitter https://twitter.com/francis_max Facebook https://www.facebook.com/francisco.ta... ▼ぼやき牧師の関連リンク WebSite「iChurch.me:三十番地キリスト教会」 https://ichurch.me/ Twitter https://twitter.com/ichurch_me Facebook https://www.facebook.com/masakiat/ YouTube https://www.youtube.com/c/MasakiTomita note「ぼやき牧師/富田正樹」 https://note.com/ichurch_me WebSite「日本キリスト教団徳島北教会」 https://tokushima-kita.com/ | — | ||||||
| 1/24/21 | ![]() 【もともとあった分かち合い】2021年1月24日(日)主日礼拝 | 聖書……使徒言行録17章1-9節(新共同訳・新約p.247) 私たちの教会(徳島北教会)は、「おたくの礼拝はまるで礼拝というよりは聖書研究会ね」と揶揄されます。特に説き明かし(説教)の後、分かち合い(話し合い)があるために、聖書研究会のような意見交換があるので、「礼拝というより聖研だ」というのです。そして当然、聖研より礼拝の方が尊いと思っていますから、「まるで聖研」というのは、「あんなものは礼拝ではない」と軽蔑しているのです。 確かに、「礼拝で言葉を発するのは牧師と司会者のみ。参加者は讃美歌以外は声を出してはいけない。話してもいけない。笑ってもいけない」と信じ込んでいる信徒は多いです。 けれども、キリスト者と呼ばれ始めた頃の最初のキリスト者たちは、果たしてそんな礼拝しかあり得ないと思っていたでしょうか? また、私たちはプロテスタントですが、宗教改革者のマルティン・ルターが原点に帰ろうとした礼拝の形とは、単なる講演会のような礼拝でしょうか? そのあたりを、丁寧に使徒言行録を読むことで、思いを馳せてみたいと思います。 徳島北教会ウェブサイト https://tokushima-kita.com 徳島北教会公式ライン http://nav.cx/jdCaztS 徳島北教会ツイッター https://twitter.com/tokushima_kita 徳島北教会インスタグラム https://www.instagram.com/tokushima_k... 徳島北教会フェイスブック https://www.facebook.com/tokushima.k/ リベラル・クリスチャン情報局「イクトゥス・ラボ」 https://ixthus.jp ぼやき牧師(富田正樹)のサイト iChurch.me:三十番地キリスト教会 https://ichurch.me ぼやき牧師のツイッター https://twitter.com/ichurch_me ぼやき牧師のインスタグラム https://www.instagram.com/stayfoolish... | — | ||||||
| 1/12/21 | ![]() 【のろさに付き合う神さま】2021年1月10日(日)新年礼拝@徳島北教会 | ■旧約聖書:詩編23編■(日本基督教団 徳島北教会 新年礼拝) 新年明けましておめでとうございます。 昨年、2020年は皆さんにとってどんな1年でしたか? 何を言っても「コロナ」の話題が私たちの頭から離れることがなかったのではないでしょうか。 このコロナのおかげで、私たちの教会の歩みも随分鈍くなったのではないかと思います。 しかし、兎にも角にも私たちは、自分たちに可能な限りの方法を使って、礼拝を死守してきました。これからも私たちは、春夏秋冬絶えることなく、礼拝を行うでしょう。礼拝は教会の中心だからです。 今日は、詩編23編の特に4節に注目してみたいと思います。ここには「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」とあります。杖は私たちが倒れそうになった時、支えてくれます。しかし、鞭は私たちが惰眠を貪りそうになる時に、「起きて、歩きなさい」と促してくれるのです。 私たちの歩みは「牛歩」かもしれませんが、それでも「ゆっくりと、しっかりと」歩み続けることが大切です。神さまはこのゆっくりとした歩みに、鞭と杖を携えて付き添ってくださいます。それを信じて、この新しい年も進んでまいりたいと思います。の新しい1年もゆっくりと、しっかりと歩んでいきましょう。 | — | ||||||
| 12/30/20 | ![]() 「ひとつ屋根のもとの安らぎ」(2020年12月20日(日)クリスマス) | クリスマスはキリスト(救い主)とされたイエスの誕生を覚えてお祝いするお祭りです。今日は、そのイエスの誕生の場面を読んでみましょう。 イエスの両親マリアとヨセフは、ローマ帝国への納税のための住民登録をするためにベツレヘムにやってきて、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」ために生まれたばかりのイエスを「飼い葉桶に寝かせた」と聖書には書かれています。 けれども、この「宿屋」という言葉は本当は「客間」と訳すのが正しいという説があるのです。つまり、ヨセフの里の親戚を訪ねてみたら、どこもやはり住民登録のためにやってきた旅人で客間がいっぱいでした。けれども、この名も無い貧しい家の人たちは、客間は埋まっているから、私たち家の者と一緒に居間で寝泊まりしなさいよ、とマリアとヨセフを自分たちの寝起きしている生活の場へと招いたのです。 これが史実であったかどうかというのは、あまり重要なことではありません。そうではなく、こうして旅人を招き、「あがって行きなさい」「食べて行きなさい」「休んで行きなさい」というもてなし(ホスピタリティ)によってこそ、イエスの誕生があったのであり、そこに私たちの教会の原点があるのだ、というのが福音書記者ルカの伝えたかったことなのです。 | — | ||||||
| 12/6/20 | ![]() 「危機を乗り越えた女性たちの子ども」(2020年12月6日(日)) | もうすぐイエス様のお誕生をお祝いするクリスマスが近づいてきます。アドヴェントと呼ばれる季節ですね。 イエス様のお誕生をお祝いする前に、福音書記者マタイが、誕生物語よりも前に述べておかねばならないと考えた、イエス・キリストの系図についてのお話をしましょう。この系図は大抵の人がここから読み始めて新約聖書を読むのを挫折してしまうところです。 けれども、この系図の面白いところは、古代の系図には珍しく、女性の名前が5つ織り込まれているところです。これらの女性たちは決して、高貴な生まれであるとか、何か栄光に満ちた生涯とか素晴らしい行いをしたと言えるかというと、そういうわけではないんですね。 そうではなく、むしろ人から蔑まれ、後ろ指を指されるような存在であったけれども、それを自らの機知と行動力によって、ある人は耐え抜き、ある人は苦境を切り抜けて生きた人です。言うなれば泥臭い人たちなんですね。 マタイが言いたかったのは、イエスとは、こんな泥臭い人生を生きた力強い女性たちの子どもなんだということ。イエスにつながる系譜は、このような泥臭い女性たちの子どもなんだと、その女性たちへのリスペクトをこめて、この系図を作ったのではないでしょうか。 | — | ||||||
| 12/3/20 | ![]() 「『いいよ、いいよ』とどんぶり勘定」(2020年11月22日(日)枚方くずは教会) | 聖書の箇所……ルカによる福音書16章1−9節(「不正な管理人」のたとえ) イエスのたとえ話というのは、大抵あり得ないような強引な展開であったり、突拍子も無いような金額や物量が出てきたりすることがよくあります。 この不正な管理人のたとえ話もその類で、二重に不正を働く管理人を主人が褒めるというのもおかしな話ですし、この主人に借りを作っているその借りの量が、半端なく大きいのです。 一体このたとえ話が何を示しているのか、解釈は難しい所ですが、これを貧しい人々、あるいは実際に借りが大きすぎて返すことができないほど困窮してしまった人や、仕事を失って路上生活を余儀なくされる人の視線から考えるとわかることができるのではないかと思うのです。 そして、私たちは実際神さまからとんでもなく大きな借り物をしているとも言えるのです。 | — | ||||||
| 12/1/20 | ![]() 「天国に入るにはどうすれば」(2020年11月15日) | 聖書……マタイによる福音書25章31−46節(すべての民族を裁く) イエスはこの世の終わりには「人の子」がやってきて、すべての国の民を「正しい人」と「呪われた人」に裁くと言いました。 この予言ははっきり言いますが、もう外れてしまっています。なぜならイエスはこの終わりの時が、自分や自分の弟子たちが死なないうちに起こると信じていたからです。 けれども、ここには人間をはっきり2つに分けることができる究極の価値観をイエスが持っていたことがわかります。それは、この世で最も小さい者の一人でもいいから、何かをして差し上げるということです。それは神にして差し上げたことなのです。 反対に、どんなに神にして差し上げたと思っていても、この世の最も小さい者にしてあげなかったことは、神にしなかったのと同じだというのです。 私たちはもう脅しのような終末論を信じなくても良いのです。けれども、このイエスの「最も小さい者の視点から見た」価値観を受け継いで生きてゆこうとトライするのが、イエスを信頼して、イエスと共に今も生きるということなのではないでしょうか。 | — | ||||||
| 11/26/20 | ![]() 2020年11月1日(日)「生かされている間に愛せるだけ愛そう」 | イエスは、世の終わりが来たとき、それまでに亡くなった人びとはみな再び起こされると信じていました。それに対して意地悪な質問を投げかけてきたサドカイ派の人びとに、イエスは「来たる世では人間は結婚というものをしない。人はみな天使のようになる。神は死んでいる者の神ではなく、生きている者の神だ」と答えました。 「神は生きている者の神」」とは、「神の愛の力は、生きている者の間で働くということではないでしょうか。今の命であれ、来たる世で再び起こされてからであれ、生きていなければ私たちは人を愛することはできません。 そして、「来たる世で天使のようになり、結婚することもない」ということは、今の命では結婚や性別役割などに縛られたものが愛だと思っていた私たちが、来たる世ではそんなものから解放されて、自由な魂として、人の魂を魂として愛することができるようになるということではないでしょうか。つまり、私たちの愛の本当の本質は、性に縛られない魂の愛なのです。 その本質を覚えつつ、今の世であれ、来たる世であれ、人の魂を魂として大切にしあう、そんな愛を精一杯愛してみたいものです。 | — | ||||||
| 11/21/20 | ![]() 「因果応報でもない、自業自得でもない」(2020年10月18日) | 聖書……ルカによる福音書15章11−32節(「放蕩息子」のたとえ) イエスの有名な「放蕩息子」たとえ話にすんなりと納得する人は少ないようです。教会に通っている人なら、放蕩の限りを尽くした人でも神は赦して愛し、受け入れるというこの物語を納得しようとしますが、この話を初めて聞いた一般の人は、到底納得がいかない、真面目に父の言いつけを守って働いてきた兄がかわいそうだという風に理解するようです。 ただ、教会に通ってこの物語を何度も聞かされてきた人も、この放蕩息子が陥った窮状は、いわば自業自得、つまり自分が犯した過ち、不道徳、罪ゆえに引き受けた報いであったのだと思っている人は多いと思います。 この放蕩の中身は、現代風に言ってみればアルコール・ギャンブル・セックス・ドラッグと言うことができるでしょう。そしてそれらは、平均的な大人なら、放蕩の限りを尽くすというほどのめり込むものではありません。 逆に考えると、放蕩の限りを尽くし、自分の生活を破綻させるほどのめり込んでしまったということは、この人が何らかの依存症を患っていた可能性があるのです。もしそうだとしたら、この人は罪人だと裁く対象ではなく、救助されるべき対象なのではないでしょうか。そして、この人を愛するのは、神の特別な愛というわけではなく、人間社会なら当然そうあるべき対応なのではないでしょうか。 「放蕩息子」のたとえ話を、ちょっと新しい視点で読み直してみたいと思います。 | — | ||||||
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| 11/21/20 | ![]() 2020年10月4日(日)「すべての人が食べて満腹した」 | 聖書の箇所……マルコによる福音書6章30-44節(五千人に食べ物を与える) 今日は世界聖餐日ですから、聖餐に関連する代表的な聖書の箇所を読みましょう。 聖餐の代表的な聖書の箇所といえば、「主の晩餐(最後の晩餐)」と「五千人に食べ物を与える」という奇跡物語ですが、今日は「五千人に食べ物を与える」の方に注目してみましょう。 この物語はイエスと弟子たちと、そしてイエスを頼って集まってきた人々が、一緒に食事をして満腹になったという喜ばしい記憶を元に書かれています。と同時に、イエスの食事の活動を引き継いだ初期のキリスト教会の実践に基づいてもいます。 つまり、この物語は、「飼い主のいない羊たち」のような社会状況に対して、初期のキリスト教会がどのように対応したのか、またどう対応するべきなのかを、イエスの始めた運動の原点にさかのぼって説いている物語なのです。 イエス、そして初期キリスト教会の実践から、私たちが何をミッションとして受け取るべきなのかを、みんなで考えてみましょう。 | — | ||||||
| 11/16/20 | ![]() 2020年9月6日(日)「神なしでは救われないか」 | 聖書……新約聖書マタイによる福音書4章1−4節(人はパンだけで生きるのではない)。 今日の日本は、まさに「神なき民」「神なき国」の末期的様相を呈していると言っても良いのではないかと感じています。 日本に住む人が皆キリスト教を信じてくれたらいいのだとは言いませんが、それにしても、この国の倫理・道徳の凋落ぶりは、詰まるところ「神の愛」によって私たちが造られ、生かされているという概念が無いことと無関係ではありえないのではないかと思わされます。 イエスは「人はパンだけで生きるものではない」と言いました。つまり人間は、ただ餌のようにものを食べているだけでは人間らしい生涯を送ることはできません。これは神を知らない人でも容易に理解できるでしょう。 しかし、加えて「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という言葉は、一般的な日本人はどう理解するでしょうか。 特定の宗教に依らずとも、「自分の理解している神」という形で自分を超越した方を意識する方法を使っているグループに、アルコホーリック・アノニマス(AA:アルコール依存者の自助グループ)があります。12のステップに従って、自分の破綻した人生を見つめ直し、新しい人生を立て直してゆく上で、「自分の理解している神」に自分を委ね、祈りつつ歩みを進めてゆきます。この方法は、薬物依存者、精神疾患の自助グループにも応用されています。 私は教会であっても、この「自分の理解している神」で良いと思います。誰も神を自分の目で見た者はいないのです。誰も神を把握しきる人はいません。本当はみんな「自分の理解している限りの神」しか知らないのですから、そのことに自信を持って良いのです。 AAなどで神という概念や祈りといった方法が取られていることは、人生を破綻から救ってくれるのはそういう方法しかありえないのだということを示していると思います。「自分なりに理解のできる神」に頼りながら、個人、そして社会の救いを求めてゆきましょう。 | — | ||||||
| 10/4/20 | ![]() 2020年8月30日(日)「いつかはあなたもわかるだろう」 | 聖書……新約聖書ヨハネによる福音書13章1−11節(イエス、弟子たちの足を洗う) イエスは逮捕され、十字架にかけられる直前に、食事の時、弟子たちの足を洗いました。 当時の人たちは外出する時はサンダルか裸足で、帰ってくると足を洗うわけですが、奴隷を雇うことのできる世帯の場合、それは奴隷の仕事でした。 その奴隷のやることをイエスが突然始めたので、弟子たちは驚きました。特にシモン・ペトロは「あなたが私の足を洗うのですか」、「私の足など洗わないでください」と言いますが、イエスは「私のしていることは、今はあなたにはわからないが、後でわかるようになる」と言い、また「もし私があなたを洗わなければ、私とあなたは何の関わりもないことになる」とも言います。 イエスがまず奴隷のように私たちに仕えてくださったこと、そして、私たちも互いに仕え合うことを勧められていますが、それに加えて、もっと色々な意味を読み取ることができるので、ここでは「今は分からなくても、後で分かるようになる」という風に、開かれた問いかけになっています。 あなたにとって、このイエスの「洗足」の行いはどのような意味を持ちうると思いますか? | — | ||||||
| 8/16/20 | ![]() 2020年8月16日(日)「流れた血が土の中から叫んでいる」 | 聖書……創世記4章1-12節(カインとアベル:人類最初の殺人) 人類の紛争・戦争は、似た者同士で争って発生することが多いと聞くことがあります。日本人の中で近年、中国や韓国に対してのヘイトクライムが多発していますが、一種の近親憎悪のような、似ているから攻撃したくて仕方がなくなってしまうのではないかという気がしています。 人類最初の殺人事件として記されているカインとアベルの物語も、兄弟殺し、つまり近親憎悪の話です。同じ母から生まれ育ち、同じように自分の仕事から出た実りを主に捧げ、顧みてほしいと願うのですが、主がたまたまその時アベルの献げ物を顧みたことから、カインはアベルと主に怒りを燃やしてしまうのです。 日本人が同じアジアの国々の中で、自分たちが頂点に立っていたい、他の国よりも優れた地位を占めたいと固執するのは、遠くにいる者よりも近くにいる者と比較して優位に立った方が、自分の優位を確認したいからでしょう。そんな幼稚な心理から、私たちは多くのアジアの隣人・兄弟姉妹たちに、地獄にも勝る苦しみと屈辱を与えてしまいました。 8月の日本敗戦の日は、ともすれば被害者としての日本にばかり目を向けがちですが、私たちは加害者としての自国の罪をしっかりと見つめ直す時にしたいと思います。自分たちが流した人々の血が、主に向かって叫んでいるという感性を常に持っていたいと思うのです。 | — | ||||||
| 8/16/20 | ![]() 2020年8月2日(日)「神に逆らってでもあなたを癒したい」 | 聖書……マルコによる福音書2章1−12節(中風の人を癒す) 寝たきりの病人に対して、「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け」と言うのと、どちらが易しいでしょうか? 2000年前の当時ですと、「あなたの罪は赦される」と言うことは、神が与えた罰を勝手に免除することですから、これは神に対する冒瀆であり、その人が神に罰される可能性があります。ですから、恐ろしいことです。 しかし、「起きて、床を担いで歩け」と言っても、何も起こらなければ、言った本人が恥をかくだけです。もう二度とイエスを相手にする人はいないでしょう。 結局、この「中風の人を癒す」物語では、イエスは両方のことを言ってしまっています。しかも加えて、「人の子(人間)には罪を赦す権威がある」と宣言までしています。彼は結果的に神への冒瀆だということになってしまっても、それでも人の罪を赦し、また「病は神の罰である」という迷信から人間を解放したかったのです。 イエスは当時の人々から見れば「宗教を破壊する者」「無神論者」のような存在に見えたかもしれません。しかし、そうなってしまうことを恐れるより、彼の人間への愛は大きかったのでした。 | — | ||||||
| 8/16/20 | ![]() 2020年7月26日(日)「山の上で弟子たちが聞いたこと」 | 聖書……マタイによる福音書5章1-12節(幸い) イエスの「山上の説教」と呼ばれているマタイ福音書のなかにある「幸い」についての一連の語りは、ルカ福音書にも収められています。ルカの方が実際のイエスの言葉に近かったのではないかと言われています。 ルカ版では「貧しい者は幸いだ」と言っていますが、マタイ版では「心の貧しい者は幸いだ」と言っています。当初、本当の貧困者と共に生きて「貧しい者、幸いなり」と叫んだイエスの言葉に対して、40年以上後のマタイは、既にある程度経済力のある者もメンバーに加わったキリスト教会の中で、少々トゲのあるイエスの言葉を和らげる意図で、「心の」という言葉を付け加えたのかもしれません。 たとえそうであったとしても、マタイ版のこの徳目表のような「幸い」は、確かに真っ当な内容ではありますが、行うのは難しいことです。このような価値観を実現するために生きようとすれば、必ず私たちは世の中から嘲笑され、罵られ、悪口を浴びせられるでしょう。この世は欲望を満たすことの方が人間の本質なのだという前提が浸透してしまっているからです。 このような世の中で、私たちの挫折は既に予想され、イエスも知っていてこのようなことをいっていたのかもしれません。しかし、私たちはこのイエスのような価値観を少しでも実現に近いものにしてゆきたいと思っているのです。 | — | ||||||
| 7/23/20 | ![]() 2020年7月19日(日)「ここは安心できますか?」 | 聖書……ローマの信徒への手紙9章25−26節(愛されなかった者を愛された者と呼ぶ) 1週間遅れの「日本基督教団 部落解放祈りの日礼拝」です。 日本基督教団では、差別の問題に関わると、「教会は社会運動に関わるべきでない」、「教会には他にやるべきことがある」と難癖をつけてくクリスチャンが必ず現れます。 しかし、「教会は社会運動をするべきではない」という言葉は、1960年代〜1970年代以降のいわゆる「教団紛争」において、保守派の牧師たちが「社会派」というラベリングを用いながらネガティブ・キャンペーンを展開したときの合言葉なのです。要するに、「社会運動などをやっているから教団の信徒の数が減ったのだ」というわけです。 しかし、差別を無くすために力を尽くすというのは、実はキリスト教会にとっては根幹に関わる課題です。その理由は単純で、イエス自身がいわば被差別部落の出身であり、同じよう差別されたり、いじめられたり、嘲られたりして泣かされた人びとに、「今泣いている者は幸いなり!」と解放の福音を宣べ伝えたのが、イエスの活動の根幹にあるからです。 もし、神・イエス・キリスト教に関心を持ち、教会を訪ねてきた人が、自分の真実をカミングアウトして、それでもまるっきり安心できるという環境でなかったら、その教会はイエスの遺志を受け継ぐ者としては相応しくありません。 私たちの教会は、すべての人が真実の自分を安心して肯定されるような場所でしょうか。そのような場所、人の集いでありたいものです。 | — | ||||||
| 7/13/20 | ![]() 2020年7月5日(日)「神は聞いている。神は見ている」 | 聖書の箇所……旧約聖書・創世記16章1-16節(アブラムとサライとハガル) ハガルとサライの対立は「女性同士の醜い争い」という風に受け止められがちですが、実際にはこの2人の女性はどちらも「女性は夫の嫡男を産む以外に存在価値はない」としてきた男性優位社会の被害者なのです。アブラムはまるで呆れているように振る舞っていますが、最大の加害者が自分であることには気づいていません。 ハガルはアブラムの家族からの虐待の結果、逃げ出そうとしますが、主の天使に「戻りなさい」と告げられます。それは、それ以外に生きる場所がなく、独りで逃げることは死を意味するからです。 主の天使は、ハガルがやがて産む子を「イシュマエル」と名付けなさいと告げます。それは「神は聞いている」「神は聞いてくださる」という意味です。これに対してハガルは「あなたこそ『エル・ロイ』です」と答えます。それは「神は見ている」「神は見ていてくださる」という意味です。 異民族であり、奴隷であり、女性であるという三重の重荷を負ったこの人の苦悩に、神はしっかりと耳を傾け、眼差しを向けてくださるということなのです。 この男女の格差の問題は、古代の昔話としては片付けられません。現代の世界でも格差はしっかりと存在し、男性はこの優位に鈍感なままあぐらをかいています。この不公平な状況も、神がしっかりと聞き、見ているのだということを認識しましょう。 | — | ||||||
| 6/21/20 | ![]() 2020年5月31日(日)「ローカルな発想で良い知らせを伝えよう」 | ペンテコステの出来事で描かれているのは、とても面白い出来事です。その頃のローマ帝国で効率よく、多くの人に何かを伝えようとしたなら、ギリシア語で宣教した方が良いはずなのに、イエス派の指導者たちは様々な出身地の人々のそれぞれのローカル言語で宣教を始めたというのですね。 これは、20年か30年後にパウロがギリシア語で手紙を書き、各地を旅して宣教し始めてから、おそらくは廃れていったやり方だと思いますが、最初のキリスト教(と呼ばれる以前の宣教)は、一人一人の出身地の言語、ということはすなわち文化を大切に、その人に合わせる形で行われていったと考えられるわけです。 私たちは宣教する時、決して効率よく、できるだけ多くの人に伝わるようにする方法もあると思います。しかし、イエスの死後50日後という、ある意味生々しくイエスの面影を抱いていた人たちは、イエスのことを相手のローカル言語で伝えようと試みたのでした。 それは、一つの言語でたくさんの民族や地域を統一支配するローマの帝国主義に対しての、ささやかではあるけれども抵抗だったのではないでしょうか。そして、すべての人々のローカルな言葉、文化、暮らしを大切にするイエスの思いの継承だったのではないでしょうか。 そして私たちもそのデリケートな感性を大切に受け継ぎながら、大掛かりでも早急でも甚大でもない、一人一人を大切に尊重するような宣教をしてゆけたらと思うのです。 | — | ||||||
| 5/17/20 | ![]() 2020年5月17日(日)「大切なLifeを丁寧に生きよう」 | 徳島北教会の2020年度指針として「大切なLifeを丁寧に生きる」という言葉を提案させていただきました。 Life(ライフ)というのは、生命・生物という意味があるだけでなく、生活や人生という意味でも使います。わたしやあなたの生命はもちろん、日々の生活も、そしてその生活の集成である生まれてから死ぬまでの人生、生涯も互いに大切にしてゆこうということです。 またもうひとつ大切なことは、この世のことを大切にしようということです。宗教というものはともすれば死んだ後のことを問題にしがちですし、キリスト教の教会も「洗礼を受ければ天国に行けます」というような教え方をしているところはたくさんあります。 しかし、洗礼を受ければ天国に行けるということを書いている聖書の箇所などありません。洗礼というのは死んだ後の天国への切符のことではなく、生きている間の人生の変革のことです。 死んだ後のことは心配しないでください。みんな間違いなく神様のもとで安らかに憩うことができます。それを天国と言うのであれば、みんな天国に行けるのです。救いというのは、天国に行くことではなく、生きている間に「救われた」と感じることなのです。 そして、今日読んだフィリピの信徒への手紙4章8-9節は、そのような人生をこの世で送るための、難しいけれども単純な、ひとつの明確な方向性を示すアドバイスなのです。 | — | ||||||
| 5/3/20 | ![]() 2020年5月3日(日)「感染症とイエス」 | かつてイエスが人々に恐れられていた感染症に対して、どのように立ち向かったのかを聖書を通して学んでみましょう。 当時、ヘブライ語で「ツァラアト」(けがれやまい)と呼ばれ、感染者がひどい差別と排除を受けていた病気がありました。その感染者がイエスのところに来て、「お望みでしたら、私を清くすることがおできになります」とひざまずきます。するとイエスは断腸の思いでこの感染者を見て、「私は望む、清くなれ」と言います。 イエスが感染を恐れていたか、またこの感染者に触れることでこの人と同じように差別されることを恐れていたかはわかりませんが、そんな思いよりも、イエスは「断腸の思い」まさに文字通り、内臓がちぎれるような心の痛みを愛を覚えて、この感染者の体をつかみ、「私はあなたに治ってほしい」と言葉を発したのです。 瞬時に病気を治す奇跡が事実であったかどうかはともかく、この感染者が癒されたことは間違いありません。このツァラアトという病は、肉体的な苦しみだけではなく、社会からも地域からも家族からも忌み嫌われ、共同生活から追い出される孤独の苦しみを味わされる病なのです。 誰からも相手にされず、神にも呪われ、生きるにも死ぬにも何も希望のない、この病を得た人に、イエスはソーシャル・ディスタンシングも一気に乗り越えて、そのほとばしる愛をぶつけたのでした。 私たちも今、病にまつわる差別と憎悪の真っ只中に生きています。こんな中で正直に言って、自分自身の中にフラストレーションや怒りが溜まってくることも否定できません。しかし、こういう時だからこそ、私たち自身もイエスによって激しく愛されているのだということを思い出して、自分も愛することのできる人間に変えていただきたいと願うのです。 | — | ||||||
| 4/16/20 | ![]() 2020年イースターのメッセージ「あの方が生きておられるから」 | イースターおめでとうございます。 イースターはイエス・キリストの復活をお祝いする日ですが、イエスの復活とはどういうことを意味しているのでしょうか。 よくイエスが肉体ごと蘇生したのだと言う人がいますが、聖書には肉体として蘇生したとは考えられないような状況でのイエスの出現が描かれています。 イエスは壁を通り抜けて、いなかったはずの所に現れますし、イエスの顔を見ても、声を聞いても、弟子たちはそれがイエスだとは気づかない。その代わり、イエスと食事をした時に、イエスがそこに実はいたのだということが知られる、というような物語なのです。 イエスの復活というのは、イエスの名のもとに、イエスの名によって食事をする、その食事こそが神の国の先取りなんだ、ここからイエスと一緒に私たちも世界を変えてゆくんだという意識を共有した時に、私たちの間にイエスが一緒にいてくれるという信仰のことなのです。 | — | ||||||
| 4/6/20 | ![]() 2020年4月5日(日)「イエスはあなたを独りにしない」(受難週のメッセージ) | レントの最終週の日曜日は「棕梠の主日」(パーム・サンデー)と言い、イエスがエルサレムの街に入ったことを祈念します。これからの1週間は「受難集」(パッション・ウィーク)と言い、いよいよイエスが苦しみを受けることを追体験する週とされています。 イエスは恥と孤独と苦痛の極みを経験しながら、人間として最低の人生の結末を迎えました。本当に救いようのないほどの最低の死に方です。 しかし、イエスの死に様が酷ければ酷いほど、イエスの死は私たちにとって恵みの深いものになるのです。なぜなら、イエスは人間として味わいうる苦しみの最低限を味わって、この世の苦しむ人と共に寄り添おうとされたからです。 「信じればハッピーになれますよ」という信仰は、本当に苦しんでいる人を救いません。信じても祈っても、楽にもならないのが人生の現実です。そのような苦悩する人を少しでも癒すのは、一緒に苦しんでくれる人の存在です。イエスは全くの孤独のうちに死ななければいけない人の気持ちを解ろうとして、自分自身も全くの孤独のうちに死んだのです。 人間の苦しみにとことん付き合おうとされたイエスの愛に感謝したいと思います。 | — | ||||||
| 3/15/20 | ![]() 2020年3月15日(日)「生まれてこなければよかった」(受難節のメッセージ) | イエスの「最後の晩餐(または主の晩餐)」の場面において、イエスは自分を裏切る者の出現を予告します。それは、次のような強烈な衝撃を与える言葉を含んでいます。 「生まれなかった方が、その者のためによかった」 あの慈愛に満ちたイエスでも、自分を裏切る者のことは赦すことができなかったのでしょうか。「生まれなかった方がよかったのに」というのは、あまりにも人間に対して無慈悲な断罪ではないでしょうか。 しかし、私たちはこの言葉に人間イエスの真実を見ます。人間イエスにとっては、自分の愛する弟子たちの中から自分を裏切る者が現れることは想定外だったのです。イエスは悲しくて苦しくて仕方がなかったのです。そして、自分が苦難を受けて死ぬことを予感して、恐ろしかったのです。 私たち自身、予想もしなかった出来事に襲われて、誰にもわからない苦しみを一人で背負い込まなくてはいけなくなってしまう時があります。でも、その苦しみをわかってくれる人がいる。それがイエスです。 イエスこそ、人間が味わい得る最大の苦しみを受けて、惨めに死んだ人間です。しかし、世の中には相変わらずそうやって死んでいる人がたくさんいます。どうやら神は、人間の苦しみを無くそうとしているのではなく、苦しみを共にすることによって愛し合い、そこから喜びや楽しみが湧いてくることを私たちに教えようとしているのです。 徳島北教会ウェブサイト https://tokushima-kita.com 徳島北教会ライン http://nav.cx/jdCaztS 徳島北教会ツイッター https://twitter.com/tokushima_kita 徳島北教会インスタグラム https://www.instagram.com/tokushima_kita/ 徳島北教会フェイスブック https://business.facebook.com/tokushima.k/ | — | ||||||
| 3/11/20 | ![]() 「神さまがしたことじゃない」(贖罪論のちょっとした修正のご提案) | レント(受難節)に入りました。イエス・キリストが苦しみを受けられたことを覚えて、自らの罪を悔い改めたり、弱点を克服するための努力をしたりといった季節としてキリスト教の暦では定められています。 イエスは何のために苦しみ、なぜ殺されたのでしょうか。 よく、「イエスは人間の罪に与えられるべき罰を、身代わりに受けてくださったのだ」ということを言うクリスチャンの方がいらっしゃいます。しかし、その考えは現代の神学からは疑問の声も上がっているということを申し上げておきたいと思います。 そもそも私たちが信じる神様は、「お前たちの罪は赦せない。誰かいけにえを出せ」というようなことを人間に要求する神様でしょうか? そして、いけにえの代わりに我が子に罰を負わせようとするような虐待的な父なる神なのでしょうか? そうではありません。イエスを十字架にかけたことが私たちの罪なのです。けれども、イエスはその仕打ちから逃げることなく、自ら痛み苦しむことで、私たちの人生の苦難で強張ってしまった魂を溶かして、柔らかく癒してくれたのです。 神が罰を必要としているという考え方が、私たちの社会からスケープ・ゴートを生み出す過ちを承認し、温存してしまうことにつながっています。スケープ・ゴートというのは、あってはならない、克服しなければならない風習なのです。 私たちは、自ら痛み苦しむことによって私たちの苦痛を一緒に引き受け、癒してくださったイエスに感謝しつつ、しかしイエスをそのような目に合わせてしまったことを悔い改めつつ、このレントの時を私たちの世の中を変えるために、意味のあるものにしたいと思います。 | — | ||||||
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